2.講談なんてものは私の表現の一部
栗ちゃん
来月から4年になるっていう、
学生生活もあと1年っていうタイミングで
何か衝撃的な出会いとかがあったとか?
学生生活もあと1年っていうタイミングで
何か衝撃的な出会いとかがあったとか?
京子ちゃん
衝撃的な出会いまではねぇ、
結構長いんですけど、
長いっていうか、7月まで衝撃的な出会いはなくて、
7月12日が衝撃的な二代目神田山陽の
講談に出会ったんですけど。
結構長いんですけど、
長いっていうか、7月まで衝撃的な出会いはなくて、
7月12日が衝撃的な二代目神田山陽の
講談に出会ったんですけど。
栗ちゃん
はいはいはいはい。
京子ちゃん
それまでは一応、いろいろ観るわけですよ。
舞台、落語。
もう毎日、バイトをしてるか、舞台観に行くか、
落語観に行くか。
講談っていうのは、
特に観に行ってなかった、その頃は。
落語観に行くと、ゲストで講談が出てるとか、
寄席観に行くと、講談が1本入ってるとか、
それぐらいで。
で、行ってる時の、スケジュール帳を見ると、
週に5回は、しかも昼夜とか、
1日3本とかっていうのが、
ずっと続くわけですよ。
で、5時までバイトして、
6時からは寄席に行ってるとか。
そういう日々を、3月から7月くらいまで
続けたんですよね。
で、そうやって観ていくと、
上手い人とか、上手ぶってる人、
技術はあるけど中身が無い人、
格好良いんだけど、格好良く見せてるだけな人。
舞台、落語。
もう毎日、バイトをしてるか、舞台観に行くか、
落語観に行くか。
講談っていうのは、
特に観に行ってなかった、その頃は。
落語観に行くと、ゲストで講談が出てるとか、
寄席観に行くと、講談が1本入ってるとか、
それぐらいで。
で、行ってる時の、スケジュール帳を見ると、
週に5回は、しかも昼夜とか、
1日3本とかっていうのが、
ずっと続くわけですよ。
で、5時までバイトして、
6時からは寄席に行ってるとか。
そういう日々を、3月から7月くらいまで
続けたんですよね。
で、そうやって観ていくと、
上手い人とか、上手ぶってる人、
技術はあるけど中身が無い人、
格好良いんだけど、格好良く見せてるだけな人。
栗ちゃん
あぁ。
京子ちゃん
何か、見えちゃったんですよ。
そうでなくても、ヘタでも中身がある人、
ヘタでも惹かれる人、
カタチにこだわらないで出来てる人。
でも、本当に惹かれるのは、
そのベースを踏んだ上で、
更に凄いもの持ってたりっていう人もいるし、
もともとベースなんかにこだわることも
関係ないくらいの人間力がある人もいたり、
でも、そっちが本当だなっと
思ったりしたんですよ、私はね。
その中で、7月の12日に出会った
二代目山陽っていう人は、
すべてを乗り越えた89歳のおじいちゃん
だったんですよね。
本当の年齢はわかんないけど。
ホントに幕が開いた瞬間に、
感動して涙が出ちゃって…
その人が全部乗り越えたのがわかってる。
今はもう、これしかない!
っていうことなんだけど、
体力だって、声の大きさだってないわけですよ。
でも、そこにいるだけでも存在感としても
空間も埋まってて、
みんなそれだけで感動しちゃってるわけですよ。
何かわかんないけど。
これがもう絶対本当だと思って、この人が、
もう…おじいちゃんだから、
何年か後には死ぬだろう…
でも、これが芸人が最後に残す
一番素敵な姿だって思ったんで、
1日でも2日でも傍にいたいっていう気持ちで、
入門願いに行ったんです。
最後のエキスっていうのは、
若い人から得る技術とか、
若い師匠のところに行って学んでりゃあ、
学べるもんじゃないんですよ。
出会わないと学べないことで。
また、こっちが、その人に、
それだけの気持ちがなければ、
向こうが何かを発したって
得られないものなんですよ。
でも、それって後付けの話なんですけど。
どんな凄い先生でもこっちが
その人にそれだけの気持ち、
この人素敵だなぁっていう、がなければ、
その人がどんなにいいことを言っても、
何も入って来ないじゃないですか。
それが何かその、薄々あって、
薄々っていうか理屈ではわかんないけど、
その頃、絶対この人の傍にいて、
空気感や、一緒の空気を吸うってことが
まず、私の芸人の第一歩だっていうか、
表現者としての一歩目だみたいな。
私は、講談師だけで生きて行こうとは
さらさら思ってなくて、
講談なんてものは私の表現の一部なんですよ。
そうでなくても、ヘタでも中身がある人、
ヘタでも惹かれる人、
カタチにこだわらないで出来てる人。
でも、本当に惹かれるのは、
そのベースを踏んだ上で、
更に凄いもの持ってたりっていう人もいるし、
もともとベースなんかにこだわることも
関係ないくらいの人間力がある人もいたり、
でも、そっちが本当だなっと
思ったりしたんですよ、私はね。
その中で、7月の12日に出会った
二代目山陽っていう人は、
すべてを乗り越えた89歳のおじいちゃん
だったんですよね。
本当の年齢はわかんないけど。
ホントに幕が開いた瞬間に、
感動して涙が出ちゃって…
その人が全部乗り越えたのがわかってる。
今はもう、これしかない!
っていうことなんだけど、
体力だって、声の大きさだってないわけですよ。
でも、そこにいるだけでも存在感としても
空間も埋まってて、
みんなそれだけで感動しちゃってるわけですよ。
何かわかんないけど。
これがもう絶対本当だと思って、この人が、
もう…おじいちゃんだから、
何年か後には死ぬだろう…
でも、これが芸人が最後に残す
一番素敵な姿だって思ったんで、
1日でも2日でも傍にいたいっていう気持ちで、
入門願いに行ったんです。
最後のエキスっていうのは、
若い人から得る技術とか、
若い師匠のところに行って学んでりゃあ、
学べるもんじゃないんですよ。
出会わないと学べないことで。
また、こっちが、その人に、
それだけの気持ちがなければ、
向こうが何かを発したって
得られないものなんですよ。
でも、それって後付けの話なんですけど。
どんな凄い先生でもこっちが
その人にそれだけの気持ち、
この人素敵だなぁっていう、がなければ、
その人がどんなにいいことを言っても、
何も入って来ないじゃないですか。
それが何かその、薄々あって、
薄々っていうか理屈ではわかんないけど、
その頃、絶対この人の傍にいて、
空気感や、一緒の空気を吸うってことが
まず、私の芸人の第一歩だっていうか、
表現者としての一歩目だみたいな。
私は、講談師だけで生きて行こうとは
さらさら思ってなくて、
講談なんてものは私の表現の一部なんですよ。
栗ちゃん
はいはい。
京子ちゃん
でも、最終的には、講談を盛り上げたり、
講談師としての神田京子で
死んでいきますけど、でも、それは何か、
私の可能性はそれだけじゃねえんだぞと。
他にいろんな表現だったり、文章を書いたり、
人とこういう対談もそうですけど、
何か全部、自分が持ってるカタチを
いろんなカタチで出してって、
最後、そぎ落とす中で講談が残れば、
私は講談師として、それが本当だと思うけど。
最初から
「オレは講談以外何もできません」
なんてって言うってのは、
もう、全然その目指すところじゃないんですね。
だって、たまたま自分は、講談っていうのは
天職だと思ってしまい、要はもう、
それだけの気持ちがなければ、
これだけ続かないし、多分、
それぞれ夢を持って進んでいくんです。
講談師としての神田京子で
死んでいきますけど、でも、それは何か、
私の可能性はそれだけじゃねえんだぞと。
他にいろんな表現だったり、文章を書いたり、
人とこういう対談もそうですけど、
何か全部、自分が持ってるカタチを
いろんなカタチで出してって、
最後、そぎ落とす中で講談が残れば、
私は講談師として、それが本当だと思うけど。
最初から
「オレは講談以外何もできません」
なんてって言うってのは、
もう、全然その目指すところじゃないんですね。
だって、たまたま自分は、講談っていうのは
天職だと思ってしまい、要はもう、
それだけの気持ちがなければ、
これだけ続かないし、多分、
それぞれ夢を持って進んでいくんです。
栗ちゃん
そうなんだぁ。
「3.一瞬一瞬の大切な表現」 へ続きます
コメント(0) | トラックバック(0)
4年生になる前の春休み。